問題は靖国神社という存在と追悼する対象なのだ。
まず一番の問題は、戦没者を国家として追悼するべき施設が国家と何ら関係のない一宗教法人によって運営されているという事実である。
国家が国家として国家のために命を捧げた人を追悼するのであれば当然国家施設であるべきだし無宗教であるべきである。
日本は日本の伝統があり、神道こそが日本の伝統の心なのだという意見はもっともだと思うが、それはヨーロッパとキリスト教、イスラムとイスラム教も同じである。
日本の伝統である神社形式を伴うにせよ、宗教としての神道はあってはならないわけである。
そもそも、宗教とは人の対立を防ぎ平和的に生きるために存在しているにも関わらず、戦争に従事した人間を「英霊」として祭っていること自体が本来の神道の趣旨とは大きく逸脱した行為であると言わざるを得ない。
靖国神社を日本の伝統という人は必ず「日本では死んだ人を神として祭るのです。それは日本の文化であって他国にどうこう言われるものではない」と言う。
しかし、歴史と神道を学べば分かるが、日本は死者を「英霊」だとか「神」として祭る伝統も文化もない。
神道では死者を「御魂(みたま)」、即ち霊的・神聖な存在(英語で言えば「sacred」)として扱うが、決して神(God)として祭ったりはしない。
例外的なケースとして、菅原道真のような祟りをもたらす人物などを神として祭り、怒りを静めるということがあるくらいである。
大体、同じ生き物である人間が作り上げる文化など、微細な違いこそあれ極端に常識から逸脱しているケースなど殆ど無いわけであって、日本だけが他国からみて著しく特徴的な宗教観を持っているなんていう発想が閉鎖的というか自意識過剰なのだ。
というわけで、戦争で死んだ人を「英霊」として祭っている靖国神社は日本古来の神道ではなく、明治〜昭和にかけて存在した「国家神道」という金メッキをつけたエセ神道と言わざるを得ない。
もちろん、当時の帝国主義全盛時代においてはその国家神道も一定の存在意義があったと思うが、帝国主義が否定され、政教分離の大原則がある民主国家において、国家神道の出る幕ではない。
明治政府によって歪められた本来の神道を我々は取り戻すべきである。
話を戻すと、一宗教法人が戦没者を慰霊するということは戦没者を慰霊するという公的、パブリックな行いによって私的(プライベート)な存在である靖国神社が利益を得るということである。
確か靖国神社の主張としては、我々は国家とは関係なく国家のために命を捧げた人を祭っているだけだ、という主張だったと思うが、私的な存在ということであれば、なおさら国家元首が私的な存在に公的参拝をすることが問題であることになる。
国家元首が国家に命を捧げた人を追悼するのであれば無宗教な国家施設である必要がある。
第二の問題として追悼の対象がある。
今一番問題となっているのはA級戦犯の合祀である。
私は以前も述べているとおり、戦犯という表現が好きではないし、A級戦犯と呼ばれる方々に戦争責任を全て押し付け、A級戦犯を分祀すれば問題が全て解決するような考え方は取るべきではないと考えている。
では、本来国家が追悼するべき対象はどうあるべきなのだろうか。
実名を入れて追悼するのであれば、国家のために命を捧げた人全てを追悼することは不可能だろう。
戦死者に限らず、国家のために命を捧げるケースは多様で、それを全て特定することはできないし、何をもって「国家のために命を捧げた」とするのかは解釈がまちまちになるため無理である。
ちなみに靖国神社にはA級戦犯に限らず、戦争後連合国によって戦犯とされ刑死した方々も含まれている。
私は広く戦没者を慰霊するのであれば、無記名の追悼という形を取るべきだと思うし、実名にするのであれば戦死者(負傷し本国で死亡した人も含む)のみを対象とする以外に方法はないのではないかと思う。
無記名であれば、戦死者から刑死した人、アジア諸国の犠牲者全てを対象に先の戦争で亡くなった方を追悼する「太平洋戦争追悼施設」という形になるであろう。
記名式であれば、靖国神社で祭られている方々のうち直接戦争で死亡した人のみを対象とする狭義の追悼施設となるしかあるまい。
ここからは余談になるが、A級戦犯を始めとして当時指導者の立場にあった人間は例え戦死であったとしても対象に入れるべきではないのではないだろうか。
戦争の意思決定に参加できず国家の命令の元、命を捧げた方に感謝と自責の念をこめ追悼するのは分かるが、自ら戦争への意思決定に何らかの影響を与えた人間は戦死したとしても、それは自ら選んだ道であってそれを他人が感謝したりするのはどうかと思うのだ。
こんなことを言うと薄情に見えるかもしれないが、会社の役員と社員の関係と思っていただければ丁度いい。
指導者層は意思決定の権限がある代わり、その決定に責任を取る必要があると私は考える。それは戦争犯罪人という考え方ではなく戦争責任者という意味だ。
また靖国神社を巡る議論の中で、日本を愛しすぎる方々が「国のために命を捧げた人を祭ってはダメとは何様だ!」とよくヒステリックに叫ぶことが多いが、先の戦争は少なくとも自衛の戦争ではない。認めたくはないだろうが、区分としては侵略戦争の区分に入る戦争である。
アジア諸国の無実の人々に多大な犠牲を強いた以上、自らの意思ではなく命を捧げたことに対し申し訳ないという哀惜の念こそあれ、英霊として肯定することはやはりできないのである。
英霊と呼ばれている人が、国家を真に愛し、自らの命を捧げてくれた事だけを見れば美しい行為に見えるが、その方々の手により多くのアジア人が殺された事実は否定できないのだ。
だからこそ我々は、心美しき先人達をして諸外国の命を奪わしめた戦争というものを二度と起こさないよう不戦の誓いを立てるとともに、戦争を止められなかった日本国民の未熟さを日本国民の一員として恥じ、自責し、未熟な結果国家の名のもとに命を捧げることになってしまった先人達に哀惜の念を抱くのだろう。
そして、云われなく命を落としたアジア諸国の方々に深くお詫び申し上げるのだ。
自分は無関係の人間の振りをして戦犯達を非難するのはもってのほかだし、逆に諸外国も含めた形で戦争を総括できない人間ももってのほか。






フランス語で歴史は、「Histoire」といい、それは同時に「物語」を意味します。
要するに、絶対的に正しい客観的な歴史事実など存在しないのです。あるのは、勝者が語る歴史、あるいは敗者が語る歴史、のどちらしかありません。後は力関係で、どちらかが生き残るのみなのです、そして、何も知らない大衆は、忘れたかのように勝者の語る物語を既成事実にしていく。
アメリカおよび連合軍(蒋介石含む)という勝者が語る歴史を前提に話をされる市長は、敗者である日本人の語る物語には全く耳を傾けないのですね?
地球の多様性Diversityの保持の必要性が叫ばれる今、市長のような、「敗者切捨て」の歴史認識は危険だと考えますがいかがですか。
靖国問題は宗教の自由の観点からもよく論じられますが、私はクリスチャンですがややニュートラルな立場におります。
戦争というのは、実は人間の弱さや罪の表れのように思います。宗教戦争といわれるものもあり、テロがあり・・・宗教が世界をダメにするという声も聴きますが、人間の勝手な解釈で自分が神になってしまう、また神を利用してしまう時に、恐ろしいことになると思うのです。
残念ながら私は靖国神社へ足を運んだ事がありません。興味はありますが、躊躇します。そこで心からの追悼の祈りを捧げられるかわかりませんし、自分の方法で世界の平和を祈っています。
日本の政治家の方々が、広い視野で、世界中の市民一人ひとりの思いを顧みて行動していただけたら素晴らしいと思いますが。
日本の文化・伝統を重んじる事、大賛成です。ただそれをたてにすることで心痛めている人々がいるということも、是非覚えていただきたいのです。
その人たちに対して、戦争に負けたー>悪いことだったー>だから戦勝国が望む場所にいってくれ
とどういう顔して、自分の国を守ってきた先祖に言うのか、見てみたい
どの神社が誰を祭ろうがその神社の自由であり、それを我々が批判するのは宗教の自由に反するのではないかと思います。
当時、多くの日本人が生き残るため、そして国益を守るため、またA級戦犯と言われた方々でも、戦争回避のためどれだけ真剣に考えて、動いた結果だったのかを考えると、当時の国民が「未熟」だったとは到底思えないし、当時生きた方々への侮辱であると思います。
戦犯であっても、処刑されたのであればそれで罪を償ったと認めてあげても良いのではないでしょうか?罪人を追悼してはいけないというのは、感覚としていかがな物なのでしょうか?
戦争を回避するのに必要なことは、他国の文化・考えを尊重し、他国に干渉しないことです、それが人道的に反しない限りは。
市長になり忙しいこととは思いますが、賛成・反対両方の書籍を読み、総合的にこういった問題を判断されると良いと思います。また中国・朝鮮の方々の意見だけではなく、当時を生きた日本人(軍人・民間人)の方々の意見、そして今、国防に携わっている自衛官の考えを聞かれると、また考えが変わると思います。認めたくないこともあるとは思いますが、影の部分と、光の部分、両方に真摯に目を向けてください。
それでは、国民のため、市民のため、頑張ってください。活躍を期待します。
追伸:靖国神社の英霊という神はGODとして祭ってはいません。
侵略や虐殺を指摘されて国連に反旗を翻しただけというのが実態ですが。
モンスターペアレントの元祖ですね。
しかも世界的に戦犯に過ぎないし。
そもそも西洋では神は唯一神のみと言う文化であり英雄を日本で祀る場合は聖人と言うカテゴリーに置くわけなんですが。聖ジョージとかのように。日本の祀るという風習は道教由来のものであり、三国志の関羽が関帝聖君となっていたり老子が太上老君とされているというような形で日本でもそういった文化が伝播しています。現在でも庚申信仰や易などの道教由来の文化は残っており祭神としての文化がないというのも暴論ですが。
こういった文化論はある程度の知識を持たないと恥をかく傾向があるため避けたほうが無難ですよ。
英雄を日本で祀る場合は聖人と言うカテゴリーに置くわけなんですが。
↓
英雄を日本のように祀る場合は聖人と言うカテゴリーに置くわけなんですが。
しかし、歴史と神道を学べば分かるが、日本は死者を「英霊」だとか「神」として祭る伝統も文化もない。
と書かれていらっしゃいますが、ちょっと考えていただきたいのですが、熊谷さん又は親族が受験の時に拝んだかもしれない、天神さん『菅原道真』候、東京の神田明神のご神体に収まってています『平将門』候は関東にも最大の鎮守様としてあがめられていますよ。
発生は祟神・忌神・地域に貢献して神となった人など派生は色々ですが生前は人だった方を「神」として祭る伝統も文化も日本にはあります。
http://homepage3.nifty.com/himegappa/jisha/misojinja/misojinja.html
皇室に逆らって最後はサラシ首になった将門でさえ、というか、だからこそ、最大の鎮守様としてあがめられています。最大の鎮守様としてあがめられています。地元の民のため立ち上がった英雄だったのです。武運つたなく敗れてしまいましたが。大和の民は優しい民族だと思います。ただしそれが文化か伝統かと言うとそこまで言い切れるか自身ありません。靖国に関しての私意ですが軍属ばかりで、空襲でなくなったりした市民が含まれていないことに奇異な感じがします。昭和天皇もA級戦犯が合祀されてからは参られなくなりましたね。
そして、国のために命をささげた本人たちが「靖国で会いたい」と言っていたのだから、その約束を後継者(=子孫)が守るのは当然という単純な考えです。
その当時の人たちが「俺は仏教徒だから靖国に祀られるなんて迷惑だ。法隆寺で会いたい」と言われたらそれでいいと思います。でも、そうじゃないですよね?
私は祖先を敬う気持ちがありますから、祖先がしてほしかったように御祭り・供養したいです。そもそも戦前に国営だった靖国神社を一宗教法人化したのは、国ですよね。。。。
まあ、一新会で小澤一郎さんの薫陶を受けた方にでもこういうこと書くと「ネット右翼だ!」とか言われるのでしょうね。。。
沖縄普天間基地問題についてです。
千葉市が手を上げたらまずいですか?
沖合いに、大型の鉄製フロ-トを浮かべて4000メ-トル滑走路を持つ大型海上基地を作るのです。半島有事の際は、分解してタグボ-トで半島の近いところに移すのです。JFEや新日鉄やら近くに製鉄所もあるし、陸上自衛隊最強の空挺師団も習志野にあるし、半島有事後海外に米軍が移転したら、羽田にでもくっつけて対応したらいかがでしょうか。そのかわり思いやり予算のうち2000億円を特別交付税として千葉市にもらえないでしょうか?10年もすれば借金返済できそうだし。
房総半島不沈空母化? カジノ以上の即没策。
このコメントは載せないでくまさい。
荒御霊として戦没者を祀るなら寧ろアリだと思いますよ。実際に戦犯として裁かれなければいけない人達が敗戦の寸前のごたごたの時に自分達のやらかした悪事の証拠を処分したり、連合国に有益な技術を保身の為に売り渡して、高級官僚や大学教授のポストにちゃっかり収まりました。この連中の保身の為に犠牲になった満州開拓団の人達やその後シベリアに送られた末端の兵隊さんはさぞかし無念でしょう。更にA級戦犯でも広田さんについては完全に冤罪です。
清○会系の連中が靖国参拝にあそこまで必死なのはよっぽど恨まれることしたんだろうなぁ。
あのね、先の大戦についてマッカーサーはなんと言ってるのかな。
アメリカの上院での証言でこういっている。
「日本が戦った戦争は日本から見れば安全保障の必要に迫られてやむなく行ったものであった」
つまり自衛の戦争だったんだよね。
自衛のために戦争しちゃいけないのかよ。
自分のために戦争するのは当たり前の事だがな。
歴史は枝葉ではなく全体の大きな流れで捉えなくてはならない、と仰る方のブログが
歴史認識を批判されているのはブラックジョークなのでしょうか。
靖国問題は思想・感情が強く混じり合うため難しいですね。
私は所謂ネット右翼という層に当たりますが、熊谷さんの
戦没者は靖国ではなく国家施設において慰霊すべきとの考え方には共感を覚えます。